洋画・海外ドラマ・海外俳優・舞台・劇団四季・その他諸々 ネタバレ含む感想等々
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行った、見た、泣いた。感動でハンケチひたひたになりました。一方で不満も残ってもやもやしました。シリーズ見てきてこんなに見返すのが辛いの初めてなんですけど。
ひとまず落ち着くためにあんまり愉快じゃない方の感想吐き出す。後日落ち着いたら熱かった場面叫ぶ。
1/1 コメント返信しました。
このもやもやは何なんかなーと考えた。
原作読んだ時に一番残ったのが欲と素朴さ、変わってしまったものと変わらないものの対比だった。だから映画オリジナルのどんぐりの件は自分の中にある『ホビット』の重要な部分と合致して涙が止まらなくなった。ビルボが持ち続けたどんぐりとその素朴さ、これらに向けられた金に狂いつつあるトーリンの優しい眼差し。トーリンの今際の言葉を引き立てるにはこれ以上ないほどの名場面だと思った。だけど、スラレゴタウキリとバルド一家周りの愛だとか、指輪物語に繋げていく伏線だとか、『ホビット』の主軸とは全く関係ないオリジナルの場面に時間を大きく割かれた結果、埋葬もアーケン石の行方もエレボールの始末もビルボの詩もなくなってしまった。もちろんこれらはEEに収録されるだろうけど(ないわけないよね?)、本当に本編に入れるべき場面はこれらじゃないのか?と疑問に思った。だって『ホビット』だもの、ビルボの綴った冒険の記録だもの。エルフやバルドなんて重要じゃない!なんて決して言わないよ。一つ一つはとても良い話だし、シルマリルの物語から話持ってきてたり(まだ全部読んでないんで間違ってたらごめんなさいね)、指輪物語をまた見たくなるような工夫があったり、ほんとすごいのな。だけどこれってEE案件だったんじゃないの?あとほらレゴラス無双とか最早恒例だけどいくら何でも長すぎだろうよ、何一人でアベンジャーズしてたり、トーリン新しい剣よってバタ子さん化してたりしてんの?大画面で映されるべきはビルボとトーリンとドワーフたちじゃないの?アーケン石の行方やエレボールのその後といった部分残したまんまでほんとに良いと思ったの?場面の取捨選択間違ってない?なんでもかんでもまぁEEに入れとけば良いだろって思ってない?と思ったわけです。
それからフィーリとキーリの死に様ですよ。何だったんだろうな、あの改変は。
まずフィーリ。一応色々感想読んでいって、トーリンがフィーリの仇を討つことを選ぶのを描くことによって、トーリンが2部でフィーリに言った一よりも全を取る王ではなくオーケンシールドであることを選んだみたいなそんな場面だったのかな、と納得はいかないなりに理解はした。全く、納得、いかないけど。だけど死んだ後、アップ映ったきり一切触れられないの、なんだこの扱い。キーリの兄でトーリンの甥で世継ぎの第一候補なんですけれども、死んだら用済みなんですかね。3部通して影の薄いお兄ちゃんだったけど、せめてトーリンの亡骸の元に皆が集まった場面で誰かに回収されていて欲しかった。その場面もないなら余計に葬儀の場面を入れて欲しかった。ちなみに原作だとお兄ちゃんはキーリよりも喋ってた。
それからキーリ。タウリエルとの恋愛はあって良かったな、と思う。だけどタウリエルを庇って死ぬのだけはやって欲しくなかった。ドゥリンの子じゃなくて一人の男として死ぬとか、言葉が悪いの承知で言うけど、なんて陳腐なんだろう。トーリンが正気に戻った場面で、皆が戦っているのに自分たちだけ戦わないのは「僕の血が許さない」って言わせていたのに。スランドゥイルとレゴラスとタウリエルと愛っていうオリジナルの話の為だけに、キーリの死が矮小化されてしまったように感じた。ていうかタウリエル弱体化させすぎじゃないの…第二部でレゴラス並に無双してたのに急にか弱い女の子にしないでくださいよ。さばさばして男前なかっこいい彼女は一体どこへ…。タウリエルといえば「せめて埋葬を」って台詞は一体どういうつもりなのか。ドワーフたちの埋葬に立ち会わせてくれって話なのか、それともキーリを埋葬するつもりだったのか、どっちにしても一応追放の身のタウリエルがスランドゥイルに許可求める内容じゃないと思うし、いやまずドワーフの意向聞けよって話だしどういうことなの。
とにかく私が見たかったのは「フィーリとキーリとは、たてをかかげ、このふたりの母の兄さんにあたるトーリンをからだでかばったまま、たおれたのです。」(瀬田貞二訳『ホビットの冒険』1979、岩波少年文庫、241ページ)ただこの一文だったんですよ。戦場ではままならない死が突然襲いかかるのを表現してるんだっていう感想見たんだけど、そんならレゴラス無双なんか映さないでくれよ。レゴラス無双映すんだったら、原作通りの死に方にしてくれよ。PJの実写化色々不満はあるけれどそれでもやっぱり好きだから、ボロミアの死をあんな見事に描いてくれたから、だからこそこの一文をどういう風に描いてくれるのかとずっと期待してたんだよ。ほんとにこの改変必要だったの?この二人の死によって描かれた諸々は本当にこの死に方じゃなきゃ描けないものだったの?と思ったわけです。
ついでにぐちぐち言うと、ワシも大ガラスもなんで喋らせなかったんだろ。ドワーフやエルフや人間同様一種族なのにまるで使い魔みたいじゃないか。だから最初からワシに乗ってけよって言われちゃうんじゃない?喋らせなかった理由がわからない。
トーリンフィーリキーリ鎧着てたのに、突撃で脱いでしまってたのが解せぬ。ドワーフだから鎧着てても不自由なく動けるわけで、動きやすさ重視で脱いだとかは理由にならないし、そもそもドワーフがドワーフ用につくった鎧で動きにくいわけないしな。大事な一戦なら尚更そんな軽装でいかないだろと。トーリンフィリキリの死の改変のためにこんな辻褄の合わないことに…。
それから化けミミズって一体何だったわけ?進軍に使うのはまぁわかるけど、あんな厄介そうな見た目なのに戦闘には一切参加してなかったでしょ。文字通りearth-eaterってだけで実は凶暴じゃなかったとかそんなオチ…?登場させる必要あったのかな、拍子抜けしたわい。
あと個人的に指輪とホビット読んでてエルフってもっと陽気で朗らかな印象だったんだけど、映画じゃ神秘的な部分ばかり強調されてて、トールキンのエルフ像じゃなくてトールキン以後のエルフ像っぽいなーと思った。シルマリル読んでても素晴らしい文化や技を持っていて強くて美しくて気高くある一方で、怒るし争うし殺しあうしで結構人間臭い。指輪EEガラ様の贈り物とかホビット裂け谷白の会議で胃を痛めてそうなエルロンドとかドワーフのどんちゃん騒ぎに顔を顰めるリンディアとかボルグとチンピラみたいな戦いを繰り広げるレゴラスとか真顔で大量の野菜と飲み物運んできた闇森エルフみたいな場面もっと欲しかったな。つまりあれだ闇の森の宴会!どんちゃんして陽気に笑って歌うエルフ!見たかった!!
PJの映画だからって全部肯定する必要はないしするつもりはない、という思いを強くしたのであった~Fin~
はいはいひとまず解散!
この映画に限らないんですが、アクション系の登場人物が死ぬ時って、この人なんでいままで無双だったのに…ってことが少なくないですね、お話の都合かよ、っていう。
まあタウリエルのために死ぬってのは、前作でタウリエルに拾われた命だからと考えれば整合性はとれますが…。
原作のエルフは陽気というか、バカっぽいので変えられたんでしょうか…w
タウリエルのためにキーリが死ぬのは、やはり個人的には感情の持っていき場がないです。タウリエルには2部同様まっすぐ強くあって欲しかった。キーリには彼女への想いを抱えながらもやはり戦士であって欲しかった。彼女に助けられた命を彼女のために投げ出すのは確かにわからないでもないんです。これが「窮地の彼女を庇った彼氏」ではなく、共闘の場面を挟んで「背中合わせに戦った戦士を庇った戦士」というシチュエーションだったら、あるいは飲み込むことができたかもしれないです。要はやっぱりPJもっと描きようがあったんじゃないかなーーー?!という感じですね…うっ…。2部の無双は一体なんだったというのか。
原作エルフたしかにバカっぽいですねww美しいと書かれている一方でいたずらっぽかったり間の抜けたやりとりをしていたり(ガリオン…)してこのギャップが結構好きなんですけどww映画的にはコメディリリーフはドワーフ、エルフはシリアスなキーキャラクターとわかりやすくしてるのかもしれないですね。
コメントどうもありがとうございました!